クリスマスプレゼント

 風邪に膀胱炎とヘルペスを併発させたあの子の体重は37キロになってしまった。なってしまった、と本人は言うけど、以前から40キロを切っていたように思う。あの子の家には体重計がない。いつもわたしに太れと言う。
 滋養にいいものをずっと考えているのだけど、ドリンク剤しか思い浮かばない。あの子は茶色い壜のものが飲めない。中身が見えないのがこわいと言う。
 わかってないの? はこっちのセリフ。クリスマスには体重計をあげる。数字見て、自覚して、3ヶ月で5キロ太れ。

軽快な戦慄

 ドビュッシーとMJQとピクシーズをザッピング。雪のせいだろうか、引き延ばした夢のせいだろうか、薄暗い部屋の中でどうにも落ち着かない。
 夢。真っ赤な口紅で唇を塗りつぶす。と同時に、白目も真っ赤に塗りつぶされてゆく。目のふちが熱を帯び、視界が赤く染まる。
 鏡で顔を確認する。まったく異常なし。ついでに、今年の初めにできた変な二重が消えかかっていることに気づく。もうこのままなんだと思っていた。夏に「二重になったまま戻らない」と言ったわたしに、「それって歳のせいだよ」と、彼女はちょっと意地悪く、そして自嘲気味に笑ったのだ。
 彼女にはアル中の素質がある、と内心わたしは思っていた。Yも同じことを感じたらしく、「俺、急に怖くなった」と彼女とわたしの前で言った。「えーならないよ。わたしお酒よわいもん」彼女はきょとんとした感じで可笑しそうに否定した。ふっと一瞬意識が遠くなるような、あるいは一瞬焦点が合って視界がクリアになるような、軽い戦慄を憶える。わたしはそんな場面に出くわすと、嫌悪を伴う興味と背徳を伴う快楽で、いつもぞくぞくしてしまう。人は自分の狂っている感覚に対して往々にして無自覚だ。
 あなたはセックス依存症じゃないし、わたしはアルコール依存症じゃない。予想はまったく逆じゃないかな。そして、Yはうつじゃない。儀式行為を必要とした、典型的な強迫神経症だよ。

視覚だけの連続

 スクリーンに蜿蜒と映しだされる夜のエンパイアステートビル。荒い画像は時折微かに歪み、プチプチという小さなノイズ音が混じる。固定されたカメラ。物語は完全に排除され、細かく震えるビルの光の粒子にかろうじて時が流れていることを知る。網膜は絶えず、闇に滲むあやうげな光と色を感じている。不安と痺れが綯い交ぜになって、発作的な痙攣に達する寸前、解離に似た恍惚に変わる。わたしは目をひらいたまま、瞑想状態に陥っていく・・・・・・

 サイケデリックな映像などない。トリップできる音楽もない。ひたすらエンパイアを映し続ける、たったワンショットの映画。こわいくらい何も起こらない、ウォーホルの「エンパイア」。アバンギャルドって何? モダニズムって? わたしにはわからない。芸術なんてわからない。ただ、禅に似ていると、18歳のわたしは思った。

泡と光

 Yがホストクラブへの軽蔑と憧れからクリスマスにはドンペリを! と言いだしたので、わたしもホストクラブへの軽蔑と妬みからバカクリスマス! と思ったが、別にドン・ペリニョンに罪はないので、「ワインのおかず」という本を眺めて前向きにシャンパンに合う料理を模索ちゅ・・・・・・だめだ、ドンペリなんて不相応すぎて、卓袱台の上に黙々とグラス積み重ねてる妄想とかしてた。無理だってばタワーは。どうすんの現実。はしゃぎながらコルクでも飛ばす? そして蛍光灯を直撃?

午前4時の治療行為

 コンビニ前のガードレールに座ってタバコを喫っていると、男が近づいてきて隣でタバコを喫いはじめた。マルボロのにおいがする。そんな気がする。そういえば、「味」の80%まではにおいによるものだって、本で読んだ。だから風邪をひくと味がわからなくなっちゃうんだな。嗅覚が鋭い=味覚が鋭い だとしたら、嗅覚が鈍い人の「美味しい」はあてにならないのかな・・・・・・
「あの」
 わたしが横を見ると、男は目を伏せすこし口ごもった様子をしてから、またわたしを見た。
「なにか病気やってるでしょ」
 病気? わたしは半笑いで首を横にふった。
「もしかしたら今じゃなくて過去かもしれないけど、なにかつらいことあったんじゃない」
 つらいことなかった人なんていないでしょ。そんなありふれたこと、占い師だって言わないよ。安っぽい口説き文句みたい。ああ、でもその前にこの人・・・・・・
「目が濁ってるんだ」
 男は黙っているわたしを見たまま静かな口調で言った。完璧に口説いてるわけじゃない。わたしは「そう」と言って微笑んだ。それから「たまに言われる」と。
「なにか心に問題抱えてるでしょ」
 この男はなんでこんな話し方をするのだろう。自発的に面倒な状況を誘因しているとしか思えない。誰にでもこんな調子なんだろうか。もし、相手が話しはじめたら一体どうするつもりなのか。光をつかみそこねたような、ダークでありきたりな際限のない告白に、わざわざ耳を貸してやったりしてるのだろうか。
「ていうか、摂食障害やってるよね」
 虚をつかれた。わたしはそのはっきりとした不穏な単語に驚き、否定も肯定もできなかった。そして、気づいたら笑っていた。男は笑わなかった。ずっと静かな表情でこちらを見ていた。自分よりもすこし若く見えた。
「コンビニで見てすぐわかった。この子、目濁ってるなって。俺そういう人いっぱい見てきてるからわかっちゃうんだ」
 最近3キロ太った。言いかけてやめた。そんな過程を言ったところで意味なんてないし、どんなきっかけも与えたくなかった。外見で判断したとしても、目だけで判断したとしても、どっちにしたって笑ってしまうくらいショックだ。笑ってしまったってことは、肯定したのと同じだ。
「脚ほそいね」
 そう言って、男はわたしの膝に触れた。性的な感じは全くしなかった。
「ほそくないよ」
 反射的にわたしは言った。そんなこと言われた経験はなかった。
「ほそいよ」
 やはり男は静かに答えて「俺の脚さわってみなよ」と言った。わたしは男のジーンズの膝に触れ、もう片方の手を自分の膝に置いた。手のひらに硬い筋繊維を感じて、流れるような紡錘形のイメージが浮かんだ。
「な、ほそいだろ」
 男はなんの感慨もなく、こともなげに言った。
「・・・・・・うん。ほそいね」
 わたしは手がそえられた膝に視線を落としたまま、ちいさな声で繰り返した。それは分析を必要としない、シンプルな実験結果だった。

「君がこれから通るのはジャズで、最終的にボサノヴァへ行き着く」

 これは5年前、新宿駅西口である男に言われた言葉だ。突然ナンパ風に声をかけてきた(「待ち合わせ? きっともう来ないよ」とかなんとか)その男は黒のスーツを着ていたが、その着こなしはどう見ても水商売のそれで、わたしの表情は不信感に満ちていたと思う。
「何? なんか俺あやしく見える?」
「うん、見える」
「えーどんな感じに見えるの?」
「・・・・・・風俗のスカウトとか」
「あ、近いね。君いい人そうだから言っちゃうけど、風俗店のオーナーやってる。でも君に声かけたのは風俗と関係ない」
 それから男は自分のことを一方的にしゃべった。地元は広島で父親がヤクザなこと、慶応で経営を学び、今は風俗店(ソープ)を3店経営していること、店の従業員と女の子がつきあうのは禁止なこと(「店の女の子に手出したらそいつ殺すね」)、そういう自分も以前は店の女の子とつきあっていて、彼女が浮気をしたときに、その相手のカリスマ美容師の店に乗り込んで利き手の指を折ったこと、そろそろ風俗店からラブホテル経営にしようか考えてること、30歳になってそろそろ落ち着きたいこと。わたしは男の白いシャツの襟の裏に隠れた、蝶ネクタイ用のボタンを見つめながら、ただ黙って聞いていた。
「俺、結婚したいんだよね。しない? 高学歴だし金もってるし、いい物件だと思うよ。父親ヤクザだけど。そうだ、音楽ってどんなの聴く?」
 どうせ言ったってわからないと思った。何だったら一般的に通じそうか考えてから、わたしは言った。
フリッパーズ・ギターとか」
「あ、そういうの聴くんだ? 小沢健二コーネリアスどっちが好き? じゃあさ、Fishmans とかスーパーカー聴いてるだろ。俺ね、初期の田島貴男が好きだったんだ」
「ピチカート時代とか?」
「そうそう! あと、こいつらちょっと出る時代が早すぎたってやつが Shamrock でさ」
「え、持ってる。わたし Shamrock 知ってる人初めて見た・・・・・・全然売れなかったよね」
「時代の先いっちゃってたんだよ。タイミングが悪かったんだ。なんだ、趣味合うな。あのね、君は今、所謂渋谷系だけど」
「所謂渋谷系?(笑)」
「君がこれから通るのはジャズで、最終的にボサノヴァへ行き着く」

 あの男の話が本当だったのか、わたしにはわからない。あるいは全て嘘だったのかもしれないし、どっちだってかまわない。それでもあの言葉だけは、まるで神の啓示みたいにずっと頭にこびりついている。わたしはあのとき完全に信じた。自分はジャズを聴くだろう、と。