「君がこれから通るのはジャズで、最終的にボサノヴァへ行き着く」

 これは5年前、新宿駅西口である男に言われた言葉だ。突然ナンパ風に声をかけてきた(「待ち合わせ? きっともう来ないよ」とかなんとか)その男は黒のスーツを着ていたが、その着こなしはどう見ても水商売のそれで、わたしの表情は不信感に満ちていたと思う。
「何? なんか俺あやしく見える?」
「うん、見える」
「えーどんな感じに見えるの?」
「・・・・・・風俗のスカウトとか」
「あ、近いね。君いい人そうだから言っちゃうけど、風俗店のオーナーやってる。でも君に声かけたのは風俗と関係ない」
 それから男は自分のことを一方的にしゃべった。地元は広島で父親がヤクザなこと、慶応で経営を学び、今は風俗店(ソープ)を3店経営していること、店の従業員と女の子がつきあうのは禁止なこと(「店の女の子に手出したらそいつ殺すね」)、そういう自分も以前は店の女の子とつきあっていて、彼女が浮気をしたときに、その相手のカリスマ美容師の店に乗り込んで利き手の指を折ったこと、そろそろ風俗店からラブホテル経営にしようか考えてること、30歳になってそろそろ落ち着きたいこと。わたしは男の白いシャツの襟の裏に隠れた、蝶ネクタイ用のボタンを見つめながら、ただ黙って聞いていた。
「俺、結婚したいんだよね。しない? 高学歴だし金もってるし、いい物件だと思うよ。父親ヤクザだけど。そうだ、音楽ってどんなの聴く?」
 どうせ言ったってわからないと思った。何だったら一般的に通じそうか考えてから、わたしは言った。
フリッパーズ・ギターとか」
「あ、そういうの聴くんだ? 小沢健二コーネリアスどっちが好き? じゃあさ、Fishmans とかスーパーカー聴いてるだろ。俺ね、初期の田島貴男が好きだったんだ」
「ピチカート時代とか?」
「そうそう! あと、こいつらちょっと出る時代が早すぎたってやつが Shamrock でさ」
「え、持ってる。わたし Shamrock 知ってる人初めて見た・・・・・・全然売れなかったよね」
「時代の先いっちゃってたんだよ。タイミングが悪かったんだ。なんだ、趣味合うな。あのね、君は今、所謂渋谷系だけど」
「所謂渋谷系?(笑)」
「君がこれから通るのはジャズで、最終的にボサノヴァへ行き着く」

 あの男の話が本当だったのか、わたしにはわからない。あるいは全て嘘だったのかもしれないし、どっちだってかまわない。それでもあの言葉だけは、まるで神の啓示みたいにずっと頭にこびりついている。わたしはあのとき完全に信じた。自分はジャズを聴くだろう、と。