「愛、あるいは恋愛は救いなんですよ。それでだいたいの病気は治っちゃう。」
坂本龍一


 昨日の夜、雪が降りしきる彼女の実家で迎えてくれたのは、強すぎるリビドーを芸術に昇華させ快感を得るお父さんと、そのイノセントを聖母マリアのように受容してお父さんを4人目の子供だと笑うお母さんと、甘えることも忌むこともせずただ静かにそこにいる猫と、テーブルいっぱいの料理だった。わたしの選んだワインはチリ産のカベルネ=ソーヴィニョン種で、口に含むと固く、舌に香辛料のような刺激と渋味が残るまだ若いワインだったが、お母さんはとても気に入った様子で、それがわたしをリラックスさせた。
 リビングを満たすもの――塩味のおでん、牛のたたき、オスのししゃも、クレソンのシーザーサラダ、じゃがいものコロッケ、野菜の鶏肉巻き、赤ワイン、ビール、日本酒、焼酎、賞賛とコミュニケーションへの欲動を隠さないお父さんの作品たち、今までの人生を腐葉土にして誰をも自分の子供のように見つめるお母さんの眼差し、長い間消えてなくなりたいと願い半年前に突如として14歳に回帰したような安らかさを得た彼女の眠たげなおしゃべり――。
 見知らぬ子供にとことこと近づき、当たり前のように抱きかかえる彼女が恐ろしくって、わたしは時々動けなくなる。子供のいる未来を当たり前のように想像し、決めている名前を4つ口にする彼女に、わたしは時々息苦しくなる。彼女を直視できないのは、わたしの人を愛する能力に障害があるからだ。
 世の中は善意に満ち溢れているんじゃないかってよく思う。悪意の人間なんかまるでいないみたいに。みんな自然なやさしさと気遣いをもって、誰かのことを考える。自分以外の、誰かのことを考える。そんな人たちにしか、わたしは出逢ったことがない。

 昼に「いでは」という店で最高に美味しい板そばを食べた。一緒に頼んだ天ぷらの盛り合わせは、真っ赤な楓や黄色い菊の花びら、薄緑の銀杏などが薄い衣に包まれ、枯れ葉を踏んだときのような小気味いい音が口の中に響いた。美味しいものは人をしあわせにする。一人暮らしをするときに、最初に買うものはもう決めてある。EME社のナイフとフォークとスプーン、白ワインを冷やすソー、赤ワインをデキャンタージュするキャラフ、3種類のグラス、それから白いテーブルクロス。

 夕方、家に帰るとすぐ、キッチンにシャブリの空き瓶があるのを発見した。胃からふっと落ちていくような脱力感。昨晩ここにも美味しいものがあったのだ。オレンジ色のル・クルーゼの鍋と、緑がかった黄金色の美しい液体が共に。

退行によるチル・アウト

 すっかり忘れていたのだった。ブログを持っていたことも、そこに記された4ヶ月間も。嫉妬、怒り、堕落、狂気、暴力、憎悪、憔悴・・・・・・その中に愛が含まれていたのかは、もはや判然としない。未熟な自分の異常な執着や依存を、愛に昇華したいだけなのかもしれない。とにかくそこにあったのはただただ愚かしく生々しい光景で、わたしはまたいつもの通り、都合の悪いことは忘れていた。
 すこし揺れているように感じる。地震の前兆かもしれない。しばらくじっと感覚を澄まして、にわかに気づく。自分の身体だけが揺れていること。動悸を地響きのように感じていたこと。わたしは不具者となり、事実からの逃避をはじめる。平衡の不具者、聴覚の不具者、視覚の不具者、摂食の不具者、愛の不具者・・・・・・、そうやって自分に都合のいい世界へ退行してゆく。健忘と倒錯と虚偽にまみれた、生ぬるい underwater へ。